任期満了に伴う佐賀県嬉野市長選挙(2022年1月16日告示、1月23日投開票)に新人の岸川美好氏が当選を目指して立候補する意向を表明されていますので吉崎氏に関する情報をまとめています。
岸川美好氏の
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・経歴
・学歴
・ご家族
・年収
・実績や評判
・公約
・その他
などについて記事をまとめていこうと思います。
岸川美好/嬉野市長選挙の経歴や家族は?
名前 | 岸川美好(きしかわみよし) |
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生年月日 | 1948年2月7日 |
出身地 | 山口県宇部市 |
最終学歴 | 山口県立盲学校卒業後、コウメイリョウ(鍼灸師の学校)卒業、明治鍼灸柔道整復専門学校卒業 |
職業(前職) | 音楽事務所代表 |
趣味 | (不明) |
岸川美好氏は山口県宇部市の出身です。
マッサージ師・鍼灸師・整骨師ですが、パラリンピック金メダリスト、作詞家・作曲家・演歌歌手、ラジオパーソナリティーとしての顔もお持ちです。
子供の頃から目が弱く、眼科のお医者様からも「将来失明する」と言われてきました。
小学校入学時には両親から盲学校に行くことを勧められていましたが、本人の意志で中学校まで健常者の学校に通います。しかし、弱視のために授業に全くついていけませんでした。
高校進学を希望しましたが、既にテストの文字も見えなくなっていて、叶いませんでした。仕方なく、マッサージ師の資格を取るために下関の山口県立盲学校に進学します。
ところが盲学校に入学して、自分よりも障害の重い人が明るく生きていることを目にして、考え方や人生が一変し、少しずつ学力を取り戻し、身体も動かせるようになって行きます。
同校在学中に世界最初のパラリンピック大会(東京五輪 1964年)で男子100メートル走で金メダルを受賞しました。
この時のタイムは12秒3。自己ベストは11秒8です。健常者のアスリートと比べても、ほぼ遜色のない記録と思われます。
このとき、「今まで『できない』と逃げていたが、これからは何でも挑戦しよう。この金メダルに恥じない人生を送ろう。」と決意されました。
同日の後刻の50メートル競泳には、今まで泳いだことがなかったので棄権する予定でしたが、考え直して出場し、最下位ながら泳ぎ切りました。
同校卒業と同時にマッサージ免許を取得し、福岡県のコウメイリョウという学校で鍼灸師資格の勉強をしながらマッサージの仕事をしていましたが、その時に奥様と出会い、紆余曲折の末に結婚。奥様が佐賀県嬉野町(市となったのは2006年)のマッサージ店の跡取り娘だったため、婿養子となります。
その後、大阪府吹田市の明治鍼灸柔道整復専門学校での整骨師(柔道整復師)の勉強も含めて、山口県と大阪府で仕事をした後、25歳頃に嬉野町で整骨院を開業し、数年後にお義父様の店を継ぎました。
それを皮切りに、お灸器具の製造販売・ビジネスホテルの経営・アパート経営と、事業を拡大します。
一方で、ちんどん宣伝隊で嬉野町をアピールしたことをきっかけに、高名な作曲家の知己を得て作詞・作曲・演歌歌手の活動も始められました。52歳での演歌歌手デビューです。東京でラジオ局JBS日本福祉放送の番組のパーソナリティーもされ、他にも精力的に社会活動をされてきました。
しかし、これまで頑張ってきた無理が出たのか、大腸癌が見付かります。
手術を経て回復し、これからは他の人のために生きようと決意しました。
人口が減少して活気を失っていく嬉野市の将来に不安を感じ、2018年の市長選挙に地元の人が誰も立候補しないので、とうとう直前になって立候補したとのことです。
この時は準備不足もあり落選でしたが、手ごたえを感じ、今回、再度立候補されました。
岸川美好/嬉野市長選挙の学歴は?
岸川美好氏の学歴は山口県立盲学校卒業となります。
同校卒業後にコウメイリョウ(福岡県)(鍼灸師の学校)、結婚後に明治鍼灸柔道整復専門学校(大阪府吹田市)に1971年~1973年にかけて在学し、卒業されています。
山口県立盲学校は、現在は「山口県立下関南総合支援学校」と改称されています。
山口県下関市にある公立特別支援学校で、視覚障害者を教育対象としています。
1905年に盲人鍼灸家今冨八郎によって、今冨盲学館として設立されました。
岸川氏が在学されていた頃の名称「山口県立盲学校」となったのは1948年からです。
当時、既に文部大臣より、あん摩師・はり師・きゅう師の養成にかかわる学校として認定されていて、小学部・中学部・高等部を擁していました。
岸川氏はここであん摩師(マッサージ師)の免許を取得されました。
現在、高等部は普通科もあり、本科普通科・本科保健理療科・専攻科理療科・専攻科保健理療科となっています。幼稚部も設置されました。
コウメイリョウについては、詳しいことはわかりません。
昼に通学し、夜はマッサージ屋で仕事をして、2年で卒業して鍼灸師の資格を取得されました。
この頃に、奥様に出会われています。
岸川氏が在学された当時は、東京、名古屋、大阪、仙台にしか整骨師の学校は、ありませんでした。
明治鍼灸柔道整復専門学校は、その内の一校であり、大阪府吹田市に所在する私立専修学校です。
1925年に山﨑鍼灸学院として設立されました。
現在は、校名を明治東洋医学院専門学校と改称し、学科は鍼灸学科、柔整学科、教員養成学科(鍼灸の教員を養成)の3科です。
岸川美好/嬉野市長選挙の家族は?
岸川美好氏には奥様と息子さん1人がいらっしゃいます。公式サイト上の自ら作詞・作曲された作品の動画に少女が写っているので、娘さんもいらっしゃるかも知れません。
当初、奥様のお父様は結婚に反対されていましたが、美好氏と奥様は駆け落ちして意志を通しました。
山口県岩国市に居ましたが、間もなく奥様は息子さんを妊娠し、「仕方がない」と婿養子として嬉野町に来ることを条件に結婚を許されました。
ところが、美好氏は嬉野町の奥様の実家がどうしても肌に合わず、3箇月ほどで夫婦で山口県宇部市の美好氏の実家に移ります。美好氏はこれを「夜逃げ、家出だった。」と振り返られています。
奥様の実家からは「3年間自由をあげるから、その後は嬉野町に帰って来るように。」言われていましたが、2年目が終る頃、同じ実家から整骨師(修道整復師)の資格を取るように勧められ、大阪府吹田市の明治鍼灸柔道整復専門学校に通いつつ仕事をしました。大阪には奥様の妹さんもいて助け合っていたとのことです。
山口県宇部市の実家で2年間、大阪で2年間。家出してから都合4年後に嬉野町に戻って整骨院を開業しました。
後に美好氏は講演録を出版しますが、その時も目の見えない美好氏を奥様はよく助けられたそうです。
息子さんが始められた「ちんどん宣伝隊」に興味を持って、地元嬉野町の宣伝隊を組織されたことがきっかけで、作詞・作曲等の音楽活動もされるようになり、奥様も一緒に歌って踊られました。
処女作の名は「二人三脚夫婦旅(ににんさんきゃくめおとたび)」でした。
奥様はその後、美好氏が、盲導犬の受入拡大・普及活動の旅をされたときも同行、東京でラジオ局JBS日本福祉放送の番組のパーソナリティーをされたときも夫婦で共演、嬉野市長選挙への立候補でも最後に背中を押されました。
今の時代、あまり声を大にして言うべきことではないかも知れませんが。
駆け落ちはもとより、自分の実家からの家出で夫の実家や大阪についていき、その後もかいがいしく夫の助けとなる。最高の奥様ではないでしょうか。
それを見守った奥様のご両親や妹さん、美好氏のご両親も立派だったと思います。
正に支え合ってこられた家族・親族だったといえるでしょう。
岸川美好/嬉野市長選挙の年収は?
岸川美好氏の職業で、現在も継続されていることが明らかなものは、音楽事務所代表(作詞・作曲・歌手)、ラジオのパーソナリティーです。
岸川美好氏の作詞・作曲は100曲以上に及びますが、これらの収入は不安定で、推測が困難ですが、年収は300万円~400万円ほどというところでしょうか。
ラジオのパーソナリティーについては、自らの職業として申告されていないところから、無償でされているのかも知れません。
マッサージ・鍼灸・整骨については、店は現在も存続している模様です。
ただ、これも自らの職業として申告されていないところから、現在は経営からは退かれているのかも知れません。
マッサージ店は成功すれば年収350万円以上が可能だそうです。
岸川氏の店は成功していたので、現在も経営に携われていれば、それぐらいの年収は加算されると思われます。
岸川美好/嬉野市長選挙の実績や評判は?
岸川美好氏は、政治家としての経験はありませんが、障害者として大きな仕事をされてきた自身の経験談の講演、講演録の出版や、整骨院・マッサージ店の経営から町興しに長年関わってこられました。
講演録は全国の図書館に所蔵されているそうです。
旅行代理店のマッサージツアーの提案、ちんどん宣伝隊を企画、音楽活動も通じて嬉野町の宣伝にも尽力されています。
更には、盲導犬の受入活動や普及活動、ラジオのパーソナリティーも実施されてきました。
その何れもが単純な思い付きではなく、町興しへの情熱や社会の在り方への疑問から発していて、単独実施や最初に着手・主動であったことに驚かされます。
実に多くのことに挑戦して結果を出されていて、2018年に嬉野市長選挙に初めて立候補する前から協賛者が大勢いたことは間違いありません。
岸川美好/嬉野市長選挙の公約は?
岸川美好氏は、自身の公式サイトに公約を掲載されています。
最新のものは「最新情報」のページに掲載されています。
項目を拾うと、次の表のとおりになります。
2.市民への行政サービスを充実させます。
3.市の予算を見直し、徹底的に無駄を省きます。
4.安心安全な町づくりをします。
5.嬉野の新庁舎の建設をやめさせます。
6.障害のある人や、高齢者の方に、優しい町づくりをします。
7.若者が市内で働く事のできる様に、企業誘致を積極的に行ないます。
8.空き家対策・・・・・
9.自らが嬉野市の広告塔となり、嬉野の観光客を増やします。
10.めやす箱(市民の要望箱)を設置し、市民の貴重な意見を市政に取り入れます。
「やくそく」のページにも公約らしきものを掲載されています。
これも項目を拾うと、次の表のとおりになります。
2.市の予算を見直しして無駄を省きます
3.嬉野市の不利益に成る事や、市民に不利益になる事には、勇気を持って「ノー」と言います
4.前任者が決めた政策でも、市にとって不利益と思う事項については撤回します
5.障碍者や高齢者に優しい町づくりをします
6.自らが嬉野市の広告塔と成り嬉野市の観光客を増やします
7.市民の人のアイデアを積極的に取り入れて、市の発展に役立てます
8.嬉野の特産物を全国にPRします
9.嬉野の文化と芸能関係の応援をします
10.めやす箱(市民の要望箱)を設置して、市民の貴重な意見を市政に取り入れます
また、同サイトの「岸川美好の歩み」にある動画では、7つの公約をされていました。上の「やくそく」の項目をまとめた表の1,3,4,5,6,10の項の約束を強調し、市政の人材育成の場としての「うれしの政経塾」の創設も宣言されていました。
「やくそく」の第1項では「自身を筆頭に身を切る改革を行って、嬉野市の130億円の借金を4年間で半減させる。」、第3項では「しがらみのない、クリーンな政治を行う。」とも宣言されていました。
何れも現在の嬉野市の財政への厳しい眼差しが窺えます。自らの歩みに根差した福祉と町興しを重視した公約といえます。
同サイトでは提言も行われています。
岸川美好/嬉野市長選挙の立候補した理由は?
岸川美好氏には、「昔の嬉野は、とても賑やかな所だったが、寂しいところになってしまった。」「このままでは財政再生団体になってしまうのではないか?」との思いがありました。
そんな中、前回の選挙では、立候補者が県外の人のみであり、地元から一人でも候補者が出る必要があると考え、負けてもよいからと立候補したそうです。
他の候補者は7,000票以上を得た中で自分は415票しか得られなかったものの、一切の後ろ盾無しに直前の立候補にも拘わらずにそれだけの票を得たことに励まされて、再度の立候補を決意されていました。
今回の立候補を控えて色々考える内、税金を払う人が辛い思いをして税金で食べている人が楽をしている不合理や、今の嬉野市の抱える多くのムダも見えてきましたが、今の市長は前の市長から引継だから不合理なことを変えられていないとの所感を持たれました。
今回は「カネのかからない選挙、カネにしない政治」をキャッチフレーズ、「日本で初めての目の見えない市長」「日本で最も安月給の市長」をスローガンにしています。
元々の地域振興への思いに加えて、「日本一ケチな市長になろう」「重箱の隅をつついて、一円でもムダを減らそう」「徹底的に財政を縮小して財政を安定化しよう」も大きな動機です。
岸川美好/嬉野市長選挙の選挙結果は?
岸川美好氏は2018年にも嬉野市長選挙に立候補されましたが、この時は落選しています。
嬉野市長選挙 投票日2018年1月21日 |
村上 大祐(無所属) 7,890票 藤山 勝済(無所属) 7,312票 岸川 美好(無所属) 415票 | 投票率 70.52% |
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立候補の意志をはじめに打ち明けた相手は奥様ですが、選挙が始まる一週間前だったので、殆んど準備もできなかったとか。書類を提出して公約を作るだけで終わり、宣伝はできなかったとのことです。
岸川美好/嬉野市長選挙の引退の可能性は?
岸川美好氏は現在73歳ですが、多くの事業に挑戦して成し遂げられてきた力強い姿は誠に印象的であり、今回の選挙の当落に関わらず、その社会活動等をやめられることは、当分無いでしょう。
市長選に当選されると、どの企業・団体の支持も得ていないので、しがらみのない強い市長になり、暫くは引退もないかと想像できます。
ただ、どの企業・団体の支持も得ていないことは当選にとって不利な条件でもあり、当選するか否かは、正直なところ五分五分かと思われます。
障害を持つ身で、これまで大きなことを成し遂げられてきたことは地元嬉野市には、ご存じの方も多いはずであり、そうではない方も公式サイトの動画をご覧になれば支持に回られる方もきっと多いことでしょう。
しかし、有権者の無関心は岸川氏には最大のマイナス要因となります。
そこのところは岸川氏自身、心得られているせいか、「自分もそうだったが、市民が市政に無関心なのが気になる。もっと関心を持って欲しい。」と訴えられています。
今回の嬉野市長選挙は、岸川美好氏にとって2回目であり、どこまで票を伸ばせるかが政治家としてスタートできるか否かに関わると思われます。
まとめ
岸川美好氏の人物像や政策等を理解する上では、以下サイトの動画が有効と思われます。
前半が自身の生い立ち、後半が政策等を語っています。
サイトには「ぜひ、最後まで見てくださいませ。」と書かれていますが、全てを視聴するとなると、約半日かかるボリュームなので、簡単ではありません。
実に多才な方ですが、多くのことに真摯に挑戦し、成し遂げられてきた人生だったといってよいでしょう。
経営の才もあり、自分の人生を一生懸命に生きる内に、家族をはじめ多くの人と縁が結ばれ、知らず知らず政治家としての成長をされてきたとも思えます。
本人の言のとおり、岸川氏が市長になると、嬉野市が大きく変わるとの期待は多くの人が抱いていると思われます。
筆者の立場からは不適切な発言になるかも知れませんが。
人柄・識見・行動力全てにおいて、「少なくとも1期は市長をしていただくべき人ではないか、是非とも当選していただきたい。」と感じました